昭和53年2月17日 朝の御理解
御理解第68節
神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。
神に嘘を言うも同然じゃというような信心をしておる人が多いと思うですね。どんなに真しやかに言葉に出しても、教祖様の教えて下さることを、心で行じていくということが神様に真を現したことになるのです。
人間にはいろいろなタイプがあります。タイプがありますけれども、信心をさせて頂いて身に徳を受けていくというおかげを頂くためには、その真がなからなければいけません。言うならば形に現すよりも、言葉で言うよりも、心の中に真実、真実性と申しますかね、いわゆる実意なものがなからなければいけない。でないと言うなら神に嘘を言うも同然と言うことになりますから、神様が本当のおかげを下さるはずはない。と同時に信心にはどうしても辛抱力がいります。
雨が降るから風が吹くからとえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ身に徳を受ける修行とこう仰る。この辛抱力をなら段々に身に付けていくと言う事、と同時に自分の心が真になっていくと言う事。まあ言うなら神に嘘を言うも同然じゃと言ったようなものを自分の心から取り除いていくと言う事。口で真を語りつつ心に真のなき事というね、言うておることよりも、心の中に思うておることのほうが大きいと言うような信心を頂きたい。そして本当にひとつ辛抱力を作りたい。そしてそれが身に徳を受ける修行と仰せられる辛抱の徳を本気で身に付けていきたい。これは私は合楽理念の信心をマスターするとか、行ずるとかと申しますけれども、そのシンを言うなら貫くものだと思うです。真、真心。それと信心辛抱。
先だってから合楽の信心を評して、和賀心時代を創ると言う御本を読ませて頂いて、途中まで、何十ページまで読んでね、とにかくここで一筆書かなければおられない。大変な感動をもって綴った、岩部先生の所に手紙を寄越した方があった。里庄教会の総代で元は共産党に入っておられたと言う、非常に頭の切れる方だということです。合楽理念を読ませて頂いてあの思うことは、どんなに無宗教の人、または半宗教の人、勿論信心心のある者なら尚更のこと、もうこの合楽理念を読むとかマスターしたらね、みんな誰でもが合点いく信心が出来ると言ったようなこと、皆さんにも記憶があるでしょう。そういう手紙を寄越しておられます。そう言うところで君は信心の稽古をしておると言うことは、本当にま幸せだと言う意味のことを一杯綴っておられます。
先日、正月にあの先生方がみんな御本部参拝した時に、帰りに教会に寄らせて頂いて、その方とお会いした時に、これは自分が持っておっては勿体ないからあんたにこれはあげるというて、まあ金光様の御真筆、もう軸にした立派な表装がしてあります。それを先生にもらってくれと言うてことづけられたと。それをあれはいつでしたでしょうか、四、五日前だったでしょうか、私の部屋の模様替えをするのに軸を全部変えて、いろいろ変えてみたけれどピタッと来ない。壁の色にどうも釣り合わない。それで前の日に見せて頂いておったその軸を掛けさせて頂いたら、ピッタリそこに合う感じである。で、そこに今掛けさせて頂いておりますが、朝晩、私はあの床の間に向かって御祈念する時に、その軸をされたその名前、何とか言ったですね。(中尾さんの声あり)中尾さんという方のことを祈らせて頂いておったんですけれども、丁度研修の時にたまたまその中尾さんの話が出て、あの中尾さんはもう絶対合楽には見えませんよと、なぜかと言うと合楽に来たら恐い。自分は必ず合楽に行ったら虜になりそうなと、と言うのが行きたいけれども行けないと言う事だったそうです。
ところが昨日、私控えに下がっておりましたら竹内先生があの、あの人が見えましたですよち言いますもん。誰のち言うたら、そのあん軸のあの人ですよち、あらこんち言いよっちゃたじゃっろうがと私が言うたら、それが来とんなさいますちいうわけです。そんならそりゃお会いせにゃこてと言うて、お会いしたんですけども、本当にそりゃ立派な方ですね。もうその一言一言、言われることが素晴らしい。
こちらへ参ります、とにかくもうどうにもこうにもできん衝動に駆られて実は今日はお参りさせて頂いたとこう言われる。私は二、三日前から御祈念をしよるとがこげんも通じるじゃろうかと思いました。もう合楽に来ないと言う人が来る気になったとこう言う。汽車の中で、里庄教会は玉水教会の出社ですから、玉水の先代の湯川先生の書かれたものを読ませて頂いておったら、たまたま今度おかげの泉の百一号に、先生がお話をしておられるそのことと、もうこれだと、お道の信心はもうこれに極まったと言うようなことがもう話してある、書いてあった。それでどうでもあの百一号こそ、こりゃ皆の同心の人達に配って、もう今後の金光教はこれで行かなきゃいけない、これだと言うものを感じたから、そのおかげの泉の百一号を百冊荷造りして下さいと言うことであった。しかしめずらしい方ですね。もう本当に金光教を愛しておられる方です。そして本当の今後の金光教はもうこれに、これにもう極まったと、だからこのことを皆に分かってもらいたい。読んでもらいたいと言うので、昨日はおかげの泉を百冊買って帰られましたね。
昨日は、丁度久留米の矢次さん所の宅祭りでしたから、毎年同じ、ま恒例の宅祭りです。あちらに行かなければなりませんから、もう準備をしてここへ出てきておりました。丁度上野先生所のお父さんの帰幽日でしたので、あちらの敏雄さん達夫妻、それこそもうお父さんの好きであった甘な、辛な取り揃えて御霊様のお祭りをま致しました。私はもうよそ行き、この奉仕着を着替えておりましたから、西岡先生が丁度正奉仕でしたから西岡先生に四時の御祈念にあわせて御祈念をして頂いた。私はここからま御霊様へ一生懸命御祈念をさして頂いた。そしたら、もうそれこそまあやっぱり御霊様のお祭りを仕えるということは非常にやっぱり責任を感じますですね、先生方が。本当に御霊様に通じなければ出来ん、通わなけりゃできん。手応えがなからなければ私が立つなと言うとるです。御霊様だけは。神様はそろそろ言うとったちゃ聞こえなさるばってん。御霊様はそんな訳にはいかん。もう本当に真心一心を立てなければ、あの手応えが感じられない。
で昨日も、その御霊様に相当時間をかけて御祈念しよんなさいました。それで下りてきてからお届けされるのに、裸のローソクがそれこそ風前の灯火というように、もう光が風でゆらゆらしておる所を頂いた。その次にはあの灯籠に、石灯籠に火が入っておるところを頂きましたとこう言う。私はここからその御祈念さして頂きよりましたら、頂くことがあの久富の富という字を頂いた。富み栄えるの富ですね。そして御理解に、あの一言おかげの受け物を作ってやれと頂いた。富と言う字から、富と言う字はウ冠、ウ冠と言うことは宇宙の宇であり、天地の親神様が言わば、家内の方はああしてしげしげと参ってくるし、さああの帰幽日、帰幽日と言うたら、お母さんとおばあさんの帰幽日には必ずまあぼた餅を作ったり、辛いものが好きであるお父さんのためには、お神酒のお供えをしたりしてあのいたしますけれども、その敏雄さんはこの頃ちょっと、ちょっと偏屈なところがあって、何か気に添わないことがあってから、この頃久しゅうもうお参りもしてこない。楽のおかげも頂いとったけれども、これももうそのままになってしまっておる。
ところがこの人にはやはりあの病気があるんです。その病気も、もう普通の病気じゃない。まあ悪いきゃそれこそ風前の灯火のようなね、大体は人なんだけれども、段々この頃から、一生懸命家内が参ってきました。毎日日参してきてお願いしてまあおかげを頂いて、まあ自分たちはやれやれ安心ということでしょうけれども、神様の目からご覧になると、実は裸ローソクに火がついておるようなもんでね、それこそ一陣の風と共に消えるかも分からん様な状態。だからどうしても一つおかげを頂いて、信心のお徳によって店も繁盛しなければならない。健康のおかげも頂かなければならない。そんためにはやはりおかげのね、受け物を一口ね、久富というのは一を書いて口と書いて田と書いてあるね。だから私はその敏雄さん達夫婦にそのことを話したんです。
この頃からね、私の遠い親戚がブラジルに行っておる。それが先日帰ってきてから話しておったのに、もう行ってからもう本当に難儀が続いて、どうしてじゃろうかと思いよった。ところがたまたま生長の家があちらは大変盛んだそうですから、にすすめられて先祖のお祭りをするとその運命が変わるという話を聞いて訳は分からんなりに、ほんにそげんいやこちらに来てから先祖祭りをしたこともなかったから、思い立ってアメリカにおられる兄さんと、それからこちら浮羽郡におられる妹さん達兄弟を全部ブラジルに、もう旅費から一切を自分が出して呼んでそしてあちらで大きな法要をしたんです。もう本当にそういうことをして、それを境のようにです、いろいろこう順調におかげを頂いてきた。広い土地を買うておったけれども、もう草ぼうぼうで誰も見向きもせんようなその土地が買い手がついたと言うのがもうきっかけで、今いろんなあの酢、醤油、豆腐、こんにゃく、とにかくあの日本の食糧、日本独特の食糧といったようなものを、工場を三つか四つか、支店をつくって今大体繁盛のおかげを頂いとると言う話をしておりました。だから先生もうとにかく先祖を大事にさえすりゃ人間の運命が良くなりますよという話をまあしておりました。
それで私はその話を敏雄さんに聞いてもろうてね、これはならお先祖を大事にしたからお先祖様が働きなさったということではなくて、お先祖様を大事にするというかね、例えば親孝行をすると言うことなんだ。先祖を大事にすると言うことはね。ですから合楽理念の言うならシンは親孝行にあるとこう言うね。親孝行の出来ない人がいかに合楽理念をマスターしたところでそれは言うならば基礎のない、言うならばところへ家を建てるようなもんだ。もう根本は親孝行にあるんだ。そして例えば今日の御理解でいくと真でなからなければならない。ところが実際、自分の心に真がない。それに気づいたら本当に真とは、真とはと言う、真心、真の追求をしなければならない。そして信心にはどうでも辛抱力を作らなければ信心辛抱の徳が身に付かない。辛抱出来ん様なことでも辛抱しておると段々有り難うなってくるね。
この頃から、ここの中村徹美君が在籍外教会の修行に行って、先生がいつも家をあけられる。ですから、もう結局一人で御結界の奉仕をせんならん。もう本当に合楽での修行中の時に一時間座っとっても足が痛いとかその何か心が移りよったけれども、御結界を任せられてね、いわば一日中御結界の御用させて頂いておったら、この勿論足は痛い。足は痛いけれども有り難いものが湧いてくるとこう言う。もうそこまで行ったら、もうしめたもんですね。初めの間は泣こうごとある。それこそ泣く泣く辛抱するところを辛抱しぬくとその向こうは有り難うして有り難うしてという心の状態が開けてくる。これは何の辛抱でもそうです。本当にその辛抱力をどうでも作らなければ合楽理念は大体は行じられないです。同時になら形のことよりも内容が言うならば真でなからなければ、神に嘘を言うも同然と言うことになるのです。そのような一つの条件が、言うなら合楽理念を形成しているんですね。
いよいよ天地日月の心になること肝要と言われる、天地日月の心とはということを追求する。その天地日月の心にならせて頂く手掛かりが、足掛かりが、もういとも本当に簡単にやろうと思えばやれれるように説き明かしてある。けれどもそのシンは親孝行にあるのであり、そのシンは信心辛抱力を作るという気持ちはなからなければだめだ。ただ頭で覚えて、ただじっとしとっただけじゃつまらん。辛抱力を作らなければ、言うなら天地の心の、大地なら大地の心でもです、言うなら中に黙って治めるというところがありますがね、その黙って治めると言う、黙っておくと言うことが非常に辛抱力のいることなんです。そしてその体験としてです、本当に黙って治めるということの素晴らしさ。それが分かってくると今度は辛抱するということ、そのことが言うなら有り難うなってくる訳なんですね。それが積もり積もって信心辛抱の徳。雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならん、その辛抱こそ身に徳を受ける修行ということになるのですね。
それで私が昨日上野さん達夫婦にですね、こうやってあなたの所、こうやって御霊様のそんならお祭りをこうさせてもらうね。だからこれが真心がないとは言わんけれどもです本当に親孝行の心、止むに止まれない思いで、言うならこの御霊様のお祭りが出来れる。例えば家には、今度立派な普請が出来てお神様も御霊様も改式しておりますから奇麗にお祭りがしてあるね。朝晩の奉仕は勿論、夫婦で例えば夜の御祈念をさしてもろうて、御霊様の前に座って、御先祖様のおかげで今日があることを心の底からお礼が言えれるような日々が大事なんだ。日々のその辛抱が大事なんだ。それが身に付いてしまうまでが大事なんだ。ただ帰幽日が来たから、帰幽日にならボタ餅のお供えをした。お酒のお供えをした。そして拝んでもろうたというだけでは、本当の真、真心とは言えない。どうじゃろか。毎日の御祈念やらができよるじゃろうかとね。毎日の御祈念が例えば出来るごつなら、本当にこれは不思議なことで教会を遠のくというようなことはとても出来ることじゃない。
それが言うなら西岡先生が頂いたね、今の状態はちょうど裸ローソクに火がついて、言うなら風前の灯火のような感じだけれども、これが今日の、私のこの一口のお話しであんたがね、その灯籠に火が入ることになったら、灯籠というのはあれは道しるべなんだ。本当なことへ、本当な道を分からせて頂く、分からせて頂くところのあれは道しるべなんだ。そこから道がはっきり分かるから、その道がはっきり分りゃ、教会参拝しなければ居られない。またはお礼参拝しなければ居られない。御理解を頂くことを楽しみに参って来なければ居られないことになる。道が分からんから参らんでん家で拝んどきゃよかろうと、なら家で拝みよろうが知れんけれども、なら拝だり拝まじゃったり、言うなら御霊様が一々物言いなさるわけじゃないからついついおろそかになってしまう。
これではせっかく信心しておる値打ちがないじゃないかと、だがそれが大変私がここからお話しよって分かるんですよね。ああ今日の話は聞いたと、今日の話しは言うならばいっちょん聞きよらんちゅう事は分かるもんですね。大体手応えがあるです。そうどころじゃなかちゅうごたる顔で、そして次にお届けをすることの内容を聞いて、ああ今日の御理解が分かったなと私は思いましたね。神様のおかげを頂かなければ出来ることじゃないね。言うならば親先祖を奉っとります、拝みよります、年忌年忌には御法事もしよります、霊祭もしよりますと言うくらいのことでは本当の親孝行にはならん。
例えば私の親戚の池尻というのがですね。それこそ北米におる兄弟、内地におる人達の旅費まで出して、それで子供たちが打ち揃ってね、本気で言うならばお祭りをさしてもろうて、これからは先祖を大事にすることを怠っちゃならんという気にならせて頂いたらね、もう本当にそれを境のようにですね、言うならば運命が変わってきて、だんだんおかげを頂いておるとこう言っておりますね。
勿論どんなに御霊様を大事にしたからと言うてです、御霊様が言うならばね、子孫のために働きかけなさると言うことは出来ないね。それは死んだ者を引っ張ってきてサァ舞台で踊れと言うのと同じこと。これは合楽理念に、ここんところが合楽理念で分からなければならないところね。魂の世界が、無いのあるのと言うたらもう信心はあるの無いのと言うのと同じことになる。魂の世界は厳然としとるね。けどもその御霊の世界というものは暗黒なんだ。その暗黒だから、私どもがこの世で心に光を頂いてね、その光を持っていかなければ行けるところではない。そのために真にもならなければいけない。信心辛抱の徳も身に受けておかなければならないと言うことになるのですね。
自分の心の中に言うなら徳がついてくる。心の中に光を感ずる。それが自分で分かる段
々。これが光りというものであろうか。これが徳というものであろうか、力であろうかと心に感ずる。そこに安心が生まれてくる。喜びが生まれてくるね。それをあの世にそのまま持っていかなければ、言うならば魂の世界での難儀が又続くわけでありますね。信心によるところの、真の信心によるところの言うなら光を頂いて、初めて光明世界ということになるのですね。だから御霊ながらの助かりが得られるということであってね、その御霊があちらでどんなに徳を受け取るからというて、こちらに送ってやるということは出来ない。
信心をしてね、あの世にも持っていける徳であり、この世にも残しておけるというのであって、御霊の喜び、御霊の安心は出来ても、どんなに力を受けておっても、ならそれを子供達に、それは例えば大変お徳を受けられた先生方の教会で二代になり三代になって、もういよいよ寂れていく教会があったりするでしょうがね。本当に御霊様が働きかけられることが出来るなら、そんなことがあるはずはないです。そんなこと絶対ないです。ただ言うなら、この世でお金をもっとれば言うなら楽な生活が出来るように、あちらには私共が徳を持っていき、光を持っていくから明るい生活が出来れる、あちらで不自由のない言うなら御霊ながらの助かりと生活が出来るのですから、どうでもひとつね、言うなら信心辛抱の徳を受けて、もう親には孝行しようごつしてたまらんちいう心が出来てこなければ駄目です。親ということは先祖にもつながります。もう本気で真心を込めて、言うならば日々の御霊様へ仏様への奉仕が出来れるその心根が天地の気感に適うのです。天地の気感に適うから、運命も良くなればおかげにもなるね。御霊様が喜びござるけん、こっちが運命が変わったということではないね。
昨日、私は知らなかったけれども、あの矢次さん所のおばあちゃんの二月の十六日ちいうのは帰幽日だそうです。それで私、御霊様の方で頂いたことを、そしたら今日は母の帰幽日だ、ははあそげなこっちゃったばいのと言うて話したことでしたけれども、御霊様へご挨拶をさせてもらいよったら、椎茸とか松茸とかと言うですね。あの茸という字です。あれは竹冠に耳と書いてあるね。字を頂くんですよ。どういうことかと私は昨日それを頂いてから、ははあこれは本当に有り難いことを頂いたと思ったんですけれども、あの改式をするね、言うならば合楽の世界、合楽のなら大坪をシンにした世界が金光大神の世界の中にあるのです。
そこでなら合楽に改式のおかげを頂いておる御霊達がどういう幸せを得ておるかということはね。もうそれこそ御霊ながらにどうしても磨かなければ、もう肉体がありませんからね、痛い、痒いが無い。あるのは魂だけ、心だけ。ですからその魂をいつも鏡の前に立てられておるようなもんで、汚れとりゃ拭かにゃおられん。曲っ取るなら真っ直ぐしなきゃおられんのが、あの魂のおかげを頂いていく過程なんです。それをならねんごろに改式のおかげを頂いたらそう言う世界におるんです。改式を受けた御霊は。ですからいつも頂く教え、いつも磨かして頂く、中々に肉体を持っておるとその改まったり、磨いたり中々出来んけれども、もう魂だけの世界はそれをする。
これは杉山三男さんのお母さんの霊祭をした時に、それを頂いてからもう本当に皆が本当の信心をいよいよ分かって、真の信心が分かって、本当にいま合楽で改式のおかげでも頂かねばいけないと、私その時に丁度月次祭でしたからそのことをしきりに皆さんに申し上げたことがございます。改式せにゃいけませんよと、そすと魂がね。言うならば丁度あれは、何とかという舞踊家の方が鏡を立てて、後からもこうやって見る鏡を見ておる御心眼を頂いて、もう後前から、いつも自分の姿を写されておるから魂はじっとしてはおられない。汚れとるなら拭かにゃおられん。曲っとるなら真っ直ぐせにゃおられないような世界におるんです。改式を受けた御霊は。だから御霊の位も段々進んでいく。喜び、安心の御霊として、おかげを頂いていけると同様にです、昨日頂いたことはですね、もう現世に例えばおる時にはですね、もう何十年信心しよったっちゃ御理解を頂かん、頂いたってただ聞いておるだけという人がたくさんありましょうが、真になんなさいといったっちゃいっちょん真にならん。信心辛抱しなさいと言うたっちゃ信心辛抱はせん。我が都合の良か時だけ参ってくるというのはそうです。ひとつも教えを頂きよらん。もう教えの、例えば教祖様の教えの一ヶ条だって守り抜きよらん。そういう金光様の信者がたくさんあると言うこと。けれどもですそれが魂の世界に入るとです、そのことだけに専念せんならん訳です。 私がこうやって毎日、朝晩御理解を説かせて頂くとね、ここに関わりのある御霊達はみんなそれこそ耳をそばだててこの御理解を聞きよるです。そう頂かんならん世界にあるです。なら矢次さん所も改式しとりますからね。それを耳そばだてて聞いておる。言うならば竹辺に耳と言うことは竹は素直と頂きます。いわゆる耳です。言うならば教えをです本気で聞くことになり、頂くことになるからいよいよいうなら鏡を立てられて、いうなら改まっていかにゃいかん、真っ直ぐなっていかなおかれんと、同時にいよいよ魂がいよいよ豊かになっていく訳ですね。教えを頂いて守らなければほかにしようがない。言うならば安らぎの御霊、安心の御霊、同時に力を頂いた御霊、光を持った御霊としての精進が限りなく出来ることになるのです。このことも合楽理念に、おそらくだけにしか説いてないことですね。
例えば金光教で言う御霊観というものは、これはあらゆる宗教でもそうですけども、まるきり霊界を見てきたごたるふうにいうてね、いろいろに説いてありますけれども、それはその過程においてはまあ本当かも知れません。私が最近申しますように本当いうたら嘘もなければというて本当な事もないのが信仰です。だからこの頃からも霊友会のことを申しましたが程度の低い時点でいうとです、あれも嘘ではないと言うことです。なら金光教の例えば御霊、いま合楽で言われておる霊観と言うものは御霊としての働き、御霊としての喜びとか、安心と言うのは、働きを持つということは御霊の世界だけにおいてのことであって、それがなら現世にそれを通わすことは出来ない。そんなら私達でも良い加減にして良いかというといわゆる親孝行が信心のシンなのですから、ですから親を大事にしなければおられない。先祖を大事にしなければおられないということになってくるから、その心根を天地の親神様に感応するわけ。天地の親神様がそれを喜んでくださる。その喜びが私どもに返ってきて、いわば幸福な生活ということが約束されることになるのです。
今日は私は六十八節からね合楽理念に説くところの、そのシンになるもの。それは神に嘘を言うような生活、生き方では駄目だということです。表よりもむしろ内容を間違いなく言うならおこのうていく。
昨日でしたかね、あの文男先生がことを申しましたでしょう。この人は合楽きってのいうなら表よりも裏を大事にする人です。だからおかげを頂くのです。だから日勝り月勝りのおかげにもなってくるのです。内容を大事にしなきゃ、神に嘘を言うも同然というような私は生活からですね、神様に喜んでもらえる通うような心の状態、それを真であり、真心だとここには説いてあります。同時になら真、真心になりさえすればそれで良いかと言うのではなくて、言うならば信心には何の稽古でも同じでしょうけれども、辛抱力を作らなければならない。その辛抱力こそが辛抱の徳ということになって、初めの間はそれこそ泣こう事あったいうなら御結界奉仕が、それが有り難うなってくるというところまで、辛抱しなければいけないということであります。
同時に私共はね、言うなら私共の世界、御霊の世界というものをハッキリと認識するということであります。これが言うならば合楽理念に、おそらくだけではなかろうかと私のような説き方をするのは、そしていろいろな御霊のことを言ってきておる人達も、それも全然嘘でもなかろうけれども、これは私が言っておることが一番本当だろうということになってくる。
信心の言うならば真を表わす。私は朝晩の御祈念の時に、皆さん一人一人がどうでも日勝り月勝り年勝りのおかげを頂いてもらわなければならない。それにはどうでも信心が分かって信心の真を表わしていかなければならない。その信心の真を表わして行くところに徳が受けられる。信心の真を表わすことによって、今度は代勝りのおかげが受けられる。子孫は代勝りのおかげを頂く。自分は魂の世界に光を持っていく事が出来れるような信心を、皆さんの一人一人が身に付けてお育て頂くようにという意味のことを私は御祈念さしてもらいますね。
今日はその信心、おかげを頂く。そこから信心が分かり、そして信心が分かるということは信心の真をですね、表わしていく工夫、その信心の真を表わしていく、どういうふうにして表わすかといったようなことを今日は大体聞いて頂いたんですよね。どうぞ。